思考と言語

私たちは、日々思考し思い悩み行動します。思考するということはどのようなことなのでしょう。そして人間はどのようにして思考力を身に着けていくのでしょう。ロシアの心理学の巨匠レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー(1896年~1934年)は、易しく私たちに思考のしくみを教えてくれます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、産声をあげることで呼吸を開始し、次第に泣く、笑う、身振り手振りを使い社会的な反応を示し、徐々に意味のある言葉を発し思考の萌芽を育てていきます。そして、ほぼ二歳ころに思考と言語の発達路線が交叉し一致するようになる決定的な瞬間を迎えるとヴィゴツキーは言います。思考が言語的になり言語が思考的になったとき子どもは「すべての物が名前を持っている」ことを発見するのです。この時、子どもは飛躍的に語彙を増やし更に貪欲に語彙を増やそうとします。「これなあに?」「これは?」と問いかけ、新たな言葉を次々に獲得していきます。以降思考と言語は更に絡み合い補完し合い発達します。

子どもはママゴト遊びやヒーローごっこなどごっこ遊びが大好きです。ごっこ遊びの中でママになって「じゃーお着換えね」と人形に話しかけたり、怪獣と戦うウルトラマンンになり替わって「閃光ビーム!」とかやっているのを大人に見られて恥ずかしそうにする様子が四歳くらいになると見られるようになります。これら外に表出したくない言葉を子どもが意識するようになると、この言葉が次第に声を発しない内に秘めた言葉となっていくのです。ヴィゴツキーは音を発する言葉「外言語」に対し、音を発しないこの言葉を「内言語」と呼び、次第に自分の心の中の自分だけの言語として成長し、その人の思考そのものになると説明します。私たちは考えるときに頭の中でブツブツつぶやきます。あの言葉がこの頃現れるのです。「内言語」は音に現れませんからその人が何を考えているかは分かりませんが、その人の持っている語彙の多い少ないによって思考力の程度を推し量ることができます。専門用語も含め我々はさまざまな言葉を学習することで思考の幅を広げているとも言えるのです。言葉は、コミュニケーションにとって大切な道具であるだけでなく、それ以上に思考にとってとても重要な役割を果たすのです。

日本人は主に日本語で思考します。アメリカ人は主に英語で思考します。思考は語彙の多さだけでなく言語によって思考の違いが現れます。日本語は、島国であり四季がはっきりしていて比較的他民族の影響を受けにくい中で育まれてきました。そんな古来からの日本人の特徴が日本語にしみついているのです。現代ではそのような日本的な考え方や行動、芸術作品が世界でも興味を持って取り上げられるようになってきました。狭い国土で農耕を中心とした人と人とがつながり合って生きてきた日本語の思考形態が世界の平和に役立つことができればいいなと思います。

ただ、ヴィゴツキーは、思考イコール言語ではなく、発達の過程で思考と言語は別々に発生し、別々に系統的に発達すると述べています。思考は、言語を使って思考する場合の他に、物などを操作しながら思考する場合があること、また、言語もすべてが思考を伴うわけではなく暗記した詩をそらんじる場合のように思考を伴わない言語もあることを論じています。

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