教師がふるえるから子どもがふるえる

東館山山頂に立つ

たなか さとし 20歳

全身を打つ 雪の結晶

まぶしいばかりに完成された

透明の輝きを見せる 結晶

その美しさが オレを打つ

美しさの中には 恒にきびしさがただよう

その 美しさがさまざまな形で

オレにぶつかってくる

しかし オレは負けない

この美しさをすべて食ってやる

目の前に広がる アルプスの山々

雪におおわれ 雲から頭を出したその姿は

何とも言えず雄々しい

しかし それは そこにある冬山のきびしさを知って

いっそう 雄々しくも美しくもなる

東館山山頂に立つ

おれは今 美しさを得るために きびしさを食う

感動を子ども達に伝えるのが教師の仕事なのではないかと思うことがよくあります。教科指導においても、学級指導においても、生活指導においても、感動を伴う指導ができるからこそ教育は人間が行わなければいけないのだと思います。

私は、中学校と小学校で理科を指導してきましたが、理科はまさに感動の連続でした。花のつくりの精緻さ、心臓のつくりの巧妙さ、宇宙の神秘、エネルギー保存の法則の潔さ美しさ、この世界にある全てのものが百にも満たない原子から作られていることを知った瞬間は驚きと不思議さで震えるほどでした。理科に限らず、国語や社会、数学でも題材やテーマ、問は美しくもあり深みのあるものです。では、学習内容を教師が淡々と子どもの前に展開させる授業を行ったらどうでしょう。本来子どもが気づくはずの大切なポイントを子ども達が素通りしてしまう可能性が高くなるのではないでしょうか。教師が事物や事象の素晴らしさを自身が感動を持って再現し子どもに感じさせることができたなら深く子どもの心の奥底に刻み込むことができるのではないかと思うのです。

私は、中学校で21回担任を務めました。一年間の生徒との出会いと別れ、これもまた感動の連続です。運動会、合唱コンクール、キャンプのスタンツ、学級劇、駅伝大会と練習を重ね、努力を積み上げていく中で、挫折や分裂の危機に陥りながらも結束し皆で一つのものを作り上げた時の喜びはこの年代だからこそ味わうことのできる子ども達の宝物になっていったと思います。

そして、一人一人の子ども達は程度の違いはありますが、さまざまな苦しみを抱えて生きています。その苦しみを少しでも癒すことができるのは心を動かす、心に染み入る言葉やアクション、パフォーマンスなのだと思います。ある時、中学2年生の女の子の傘が、折られているのが見つかったことがありました。その傘は、ひらがなでその子の名前が記され、小学校低学年から大事に使い続けられた様子が伺われました。私は、長く使われた傘であることをその子に確認しながらクラスの生徒の前でぽろぽろ涙を流してしまいました。「この傘はね、〇〇さんが小学校2年生の頃からいっしょに過ごしてきたんだね。いろいろなことがあったと思う。いっしょに大きくなってきたんだね。」傘を折ってしまった生徒を含め多くの生徒が一緒に泣いてくれました。

ふるえる

たなか さとし

歴史の必然性を知ったとき

数学の理屈が分かったとき

詩の裏側にある思いを感じたとき

教師がふるえる

子どもがふるえる

学級劇が完成したとき

大繩大会で最高記録を出したとき

合唱コンクールでハーモニーが一つになったとき

教師がふるえる

子どもがふるえる

苦しさを吐露できずに自暴自棄になる子どもの心に教師の心が入り込めたとき

教師がふるえる

子どもがふるえる

教師がふるえるから

子どもがふるえる

参照:涙

参照:ルドルフ・シュタイナーとレフ・セミョノビッチ・ヴィゴツキー

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