地球市民
「地球市民」という言葉をご存じでしょうか。最近はあまり耳にしませんが21世紀が幕を開ける頃良く聞くことのできた言葉で私の最も好きな言葉の一つです。ちょうど西暦2000年に私が所属する県の国際教育研究協議会は全国大会を開催することとなりました。その時にテーマとして掲げたのが「地球市民の育成」です。
21世紀の幕開けとともに、これからの地球は、国と国とが対立することなく、互いに尊重しあい、地球上の全ての人が同じ地球市民という立場で、地球上の課題を協力して解決しようという、地球市民による地球づくりを夢に描いた大会でした。
ところが、20年が経過し地球市民という言葉はほとんど聞くことがなくなってしまいました。ただ、2015年から向こう15年間の国連における開発目標「持続可能な開発目標SDGs」の中に地球市民という言葉が顔をのぞかせている気がして嬉しく思っていました。しかしながら、国連の開発目標を横目に世界ではポピュリズムが台頭するなど、自国優先主義が社会の一つの流れにもなっています。また各所で紛争が起きるなど地球市民という考え方には程遠いのが実情です。
人は、見知らぬものに対して警戒心を抱きます。互いの警戒心から自己防衛による敵意が生じ戦いが起こります。戦いは、憎しみを生み更なる憎悪を募らせながら戦いをエスカレートさせていきます。戦いの発端は、自分とは異なるもの、同質でないものに不信感をいだき警戒心を募らせていったときに起きるのではないでしょうか。
太古の昔、小集団で人々は生活を送っていました。交通手段や通信手段が徒歩や言葉に限られていた頃は、自分たちの生活圏の外は、とても恐ろしい世界であったことでしょう。人々は、文字を獲得し手紙を通信手段としました。馬やラクダを交通手段として使うようにもなりました。そして、蒸気機関や電信技術が開発されるようになり人やもの、情報が世界隅々にまでいきわたるようになりました。その間、自分とは異なる、同質でない者と出会い、戦いも繰り返しましたが、互いを理解することも進んできました。
2000年、ジェット機が空を飛び、インターネット時代が幕を開けようとする21世紀、世界中の人々は未知なる者ではなく、同じ人間、互いに理解し尊重することのできる地球市民としての時代が幕を開けるのではないかとわくわくしました。
ところが、現実はそれほど甘くはなかったようです。まだまだ、自分とは異なるもの、同質でないものを理解し受け入れることのできないところがあるようです。
人には違いがあります。人はみんな違います。違うから良いのです。違うから素晴らしいのです。自然は男と女という性の違いを与えてくれました。これは、より多様な子孫を残すために自然が与えてくれた尊い恵みです。男と女、それぞれできることとできないことがあります、互いに補い合って生きていきます。人と人、それぞれ感じること、考えることに違いがあります。その違いを、否定するのではなく互いに受け入れて新たな発想を見つけ出すことに進歩があるのだと思います。
性の違い、年齢の違い、人種の違い、民族の違い、宗教の違い、などなど違いを理解し尊重することが新たな解決策となる大切なものなのだということを地道ではありますが、目の前の子どもたちに伝えていきたいと思っています。
違いを大切にできる教育が世界隅々に行きわたり、それぞれの国の特色を生かしながら、地球規模の課題に協調して取り組める地球市民にあふれる世の中に一日も早くなってほしいと願っています。