宇宙と私
子どもの頃、アポロ11号が月面に着陸し、人が月の上を歩く姿を目の当たりにした頃、宇宙の果てはどうなっているのだろうと、よく思いを巡らせたことを思い出します。
何年か前の8月のある夜、標高2、450m北アルプスの立山室堂から夜空を眺める機会をいただき、かつての思いがよみがえりました。月の無い新月の夜、快晴無風の中、数千にも及ぶ大小の星が放つ光を、目を凝らしながら見つめていると、宇宙のこと地球のこと自分のことが頭をよぎりました。宇宙の起源は137億年も前にさかのぼるといわれています。100億光年の彼方にある星は、100億年前に放たれた光を今見ていることになります。こと座のベガは25光年、わし座のアルタイルが16光年、それぞれ25年前、16年前に放たれた光を見ていることになります。今見える星でも、すでに消えて無くなってしまっている星もあるはずです。
光の速さはよく1秒間に地球を7回半回る速さと言われています。その光が到達するまでに100年も一万年も一億年もかかる膨大な空間の中に、それぞれが何年もの長旅を経てたどり着いた星星の光を見つめていると、自分は一体何なのだろうという思いにかられてきます。最も身近な天体太陽でも、地球を直径1メートルの球にたとえるとその12キロメートル先に東京ドーム程の大きさで光り輝いている大きさになります。その太陽は、数千億個の星が集まる直径十万光年の円盤状の星の集まりである銀河系の星の一つにすぎないということに正に驚くばかりです。更に銀河系のような星の集まりが7兆個も宇宙空間に存在することが確認されているということで、ますます自分は何なのだろうという思いが強くなります。
宇宙というとてつもない巨大空間のほんの片隅にある小さな星地球の中で、何十億年何億年という永遠とも思える時空間の中にあって、たったの50年、80年という一瞬の煌めきを生きる私の命のはかなさ、弱さを感じない訳にはいきません。
人は、自らの弱さ、はかなさを感じた時、自らの命を慈しみ、自らの生が存在する時空間に共に存在するものを愛でる気持ちが生れるのではないでしょうか。膨大な宇宙空間にあって地球という小さな惑星に人間という生物として生まれ、ひと時の命を授けられた奇跡に感謝し、限りある命だからこそ懸命に生きよう、最大限に命を活かしていこうと思うのでは無いでしょうか。そのために、自分は学び、よりたくさんのものが見える目を持ち、体を鍛え脳を含めた体の力をいかんなく発揮し、自分が出会った人やものを愛することで共に幸せを築こうとするのではないでしょうか。
こんなことを考えながら、数千もの星星をながめることができました。星星を説明してくださった現地の天体観測をなさっている方の話では、立山でもこのようにたくさんの星を見ることは難しいということでした。快晴であり、月の明かりが全く無い新月の夜に、水蒸気もほとんど上がっていないこのような空は初めてだということでした。私が星に別れを告げて部屋に入ってしばらくすると、あたり一面が霧に包まれてしまいました。この夜の星との出会いを、私には叶わなくとも、多くの子どもたちに叶えさせてあげたかった。