ルドルフ・シュタイナーとレフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー

ルドルフ・シュタイナーの言葉に、「自分に適応することを知らず、社会に適応することばかりを教えられることは、感覚を殺すことになり、内的な不調和を生む」という言葉があります。つまり、世の中のルールはこうだから従いなさいとか、知識を一方的に教え込ませるような授業を続けると内的な不調和を生むというのです。私は1981年に教員となり、教職15年目を迎えた1996年にシュタイナーの書籍に出会い「今の中学生は多くが内的不調和を起こしているのではないか」と思いました。さらにシュタイナーは「子どもの魂に触れるような出来事を多く設定すればするほど、子どもは素直に社会性を身に着けて行く」と続きその言葉に得心しました。そうなのです。文化祭の学級劇で大成功を収める。運動会で大声を上げてクラスの仲間を応援する。こんなときの喜々とした子どもの表情は何とも言えず清々しく輝き、その後、学級に帰ってする私の話に、子どもたちは驚くほど素直に聞き入ることができるのです。シュタイナーの言葉は私の中に砂に水が浸み込むように入ってきました。

ルドルフ・シュタイナーの教育理論の根底にあるのは、古代ギリシアで行われていたギムナスト(体育教師)の教育です。古代ギリシアでは、思春期を迎える前の子どもに徹底して格闘技や円舞を教えました。子どもたちは繰り返し格闘技を習い踊りを踊る中で、初めは意識化されていた動きが次第に無意識になり、それに伴う全身の神経と筋肉の連動性が極限まで高められていくのです。言い換えると、中枢神経と感覚神経、運動神経の連動性が高まり骨格と筋肉が強固に形成されバランスの取れた神々しいばかりの肉体が作り上げられていったのです。有名なダビデ像はその象徴的な肉体です。古代ギリシアでは、神経と骨格・筋肉を自在に動かすことができる完成された精神と肉体を得れば、その後は数学、哲学、天文学などの学問が自然と身につくと考えられていました。そしてギムナスト(体育教師)は、子どもが生涯に渡って“子どもらしさ”を失わないように育てられれば教師として最高の使命が果たせたと考えられていました。ソクラテスやプラトンを産んだあの謎のような文化文明開化の源はそういったギムナストの教育にあるとシュタイナーは言います。

シュタイナーは、古代ギリシアで行われたギムナストの教育をもとに感覚器と神経、筋肉をスムーズに動かす体を作りながら最後に大脳に働きかける教育をシュタイナー学校で実践したのです。シュタイナーの言葉に「人は、感覚領域を広げ感情へと発展させることで本質をつかむに至る」というものもあります。丁寧に人の感覚領域を刺激し幅広い感覚領域を育てさまざまな感覚を得て感情のゆさぶりを子どもたちに体験させたのです。シュタイナーの考える感覚領域はいわゆる五感の他に、人の生気や感情の現れを熱として捉える熱感覚や言葉にふくまれる音以外の効果を感じる言霊の世界言語感覚、石ころをどれも同じ石の集まりと見るのではなくかけがえのない一つ一つの集まりと捉える個体感覚など人として感じることのできるあらゆる感覚を含みます。文化祭の学級劇で大成功を収めた場面で、子どもたちはそれまでに経験したことのない新たな感覚を感じ感動体験へと昇華する中で本質的な喜びを感じ取っていたのではないかと思います。

近年、嗅覚の低下が意欲減退につながり、聴覚の低下が認知症と関係しているという研究結果が発表されています。感覚器の細胞は感覚器の働き以上の役割をも担っているのです。シュタイナーは生後間もない赤ちゃんには特に自然のモノを与えなければいけないと言います。口にする食べ物や飲み物もそうですが、おもちゃもプラスチックはだめで木であったり土であったりと自然のモノを与えなければ感覚の芽が育たないと言います。合成繊維、プラスチック、テレビ、スマートフォンと自然とはかけ離れたモノにうずもれて育つ赤ちゃんがとても心配です。

シュタイナーが霊的身体的に、また感覚感情領域に働きかけながら「人間とは何か」を捉えた人物であるのに対し、レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーは極めて実験的、論理的に「人間とは何か」を追求した人物です。

私が、ヴィゴツキーからもっとも衝撃的に目を見開かされたことは、人間の全ての精神活動は言語等が媒介となって行われているということです。普段何気なく使っていた言葉が、実は私が人間として生きていることを実感できる大切な道具だったということに気付いたのです。

パブロフの条件反射では、Aベルを鳴らしBエサを与える行為を繰り返すと、次第にベルを鳴らしただけで犬が唾液を出すようになります。つまり、ベルA→B唾液と反応するのです。ヴィゴツキーは、その反応の間に人間には媒介する心理的道具すなわちX言語等が存在することを明らかしたのです(A→XとX→B)。

つまり、人間は行動する中で必ず言語等で意味づけを行いながら行動しているのです。ベルが鳴った「ベルが鳴ったからそろそろエサがもらえるんだな」唾液が出る。の「」内が犬には無いのです。私は、「なぜここにいるのだろう」とか「人は私の事をどのように見ているのだろう」とか「今日の晩御飯は何だろう」とかを考えることが出来るのは言語等の心理的道具があるからです。生まれつき耳が聞こえない人でも、物の名前や行為を記号や手話を使って意味づけし心理的道具として使いこなすようになります。言語等としたのはそうゆうことで、人の使う心理的道具には、言語の他に文字、図、代数記号、芸術作品などあらゆる種類の記号が含まれそれらの心理的道具を媒介して人は精神活動を行うことができるというのです。人が言語等の心理的道具を持たなければ考えることもなければ悩み苦しむことも無かったはずです。ただ、言語等の心理的道具を持たなければ現在のような文化的生活もなかったはずです。言語等があるから人間なのです。

ヴィゴツキーは、このような言語等を使った心理機能を子どもは自律的に自然発生的に身に付けるのではなく人と関わる中で社会的に形成されるものであると言っています。そう、人は協同的に心理機能を身に付けるのです。子どもが言語を習得するとき、初めは母親など周囲の人が発する言葉を無条件に認識し次第に模倣しようとします。それらの言葉は次第に子どもの中で意味づけされて自分の言葉として使いこなすようになるのです。つまり、母親や周りの人の言葉や他人の書いた文章は、初めは自分のものではなくてもそれらを模倣し理解することで次第に自分の言葉や文章として使えるようになるのです。ヴィゴツキーは、「すべての高次の精神機能は、はじめは精神間的機能であったものが、精神内的機能に転化することによって生まれる」と説明しています。言語習得は他者との関わりという言語環境があって初めて成り立つのです。

これと同様にヴィゴツキーは、教育について「教師が環境を変えることで子どもを教育する」と述べています。言語が他者との関わりの中で形成されるように、自然科学や哲学、芸術などの学問を教師が直接的に教え込むのではなく、社会環境を通して間接的に生徒に影響を及ぼす存在となる必要があるというのです。「教師は、社会的教育環境の組織者・管理者であり、一方でこの環境の一部分です」ともヴィゴツキーは述べています。

 私は、ヴィゴツキーの教育に対する考え方が、シュタイナーの教育に対する考え方と重なり深まる思いを強く感じています。両者ともに教師は子どもの教育環境の調整者であり、あくまでも子ども自身の経験によって教育がなされるとしています。その上でシュタイナーは、生徒にさまざまな感覚を経験させる中から本質を追求する芽を育てる教育を実践し、ヴィゴツキーはモノとの出会い、人との出会いの中から自己の内面に育つ芽を育てる教育を論理的、実験的に組み立てています。また、両者は共に教育の中に競争を取り入れることを強く批判しています。子どもはより良い自然環境や社会環境の中で競争ではなく協和する中で育つというのです。

そういった教育のエッセンスを受けて、私はこれまで学級担任を行い学校運営を担ってきました。このサイトに記す文章はそれらの考えがベースとなっています。

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