何で学校はあるの?
小学校 6年生女子児童
しんしんと
冬の空から
おくりもの
これは、私が小学校の校長をしているとき、6年生の女の子が俳句の授業で詠んだ作品です。私は、この句を見たとき、うれしそうに空を見上げる女の子の顔に雪がやさしく落ちてくる情景が目に浮かびました。雪に出会った女の子のワクワクする気持ちがとっても初々しく、私は嬉しくなりました。
古代ギリシアのギムナスト(体育教師)が教育の目標として目指したことは、生涯「子どもらしさを失うことのない人間を育てること」だったとルドルフ・シュタイナーは言います。<参照:ルドルフ・シュタイナーとレフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー>「子どもらしさ」とは一体何なのでしょう。「子どもらしさ」には好奇心、躍動感、意欲、などの言葉が思い浮かびます。私はそこに感性という言葉も含まれるのだと思います。子ども時代のみずみずしい気持ち、それがあるから子どもなのだと思います。ギムナストは、それらの子どもらしさが生涯続くことを目標にして格闘技や円舞などを通じて肉体と精神をバランスよく育てていったのです。確かに長生きをされている方々を見ていますと、好奇心、躍動感、意欲、そしてみずみずしい感性をお持ちの方が多いように思います。ギムナストから見ると、これらの方々は、教育の目的が達成された方々になるのでしょう。
私は若い頃子ども達に、「何で学校はあるの?」「何で学校に行かなければならないの?」と尋ねられることが良くありました。なかなかスッキリとした答えを返してあげられずに苦しい思いをしたことを覚えています。年を重ね、長く学校にいるようになると、学校とは「何が正しくて、何が正しくないかを知るところ」「本質や真理が何かを見る目を持つことができるようになるところ」ではないかと思うようになりました。国語、算数、理科、社会、英語、音楽、美術、保健体育、技術家庭、道徳、学級活動、学校行事、部活動など、すべての教育活動を通して何が真理かを見つめる目を持つために学校はあるのだと思うようになりました。<参照:学習>
しんしんと
冬の空から
おくりもの
この句を詠んだ女の子は、本質を見る目を持っているのだと思います。見上げる空から次々に落ちてくる雪の結晶を肌で感じながら、自然の良さ、あたたかさ、すばらしさを感じる感性が育っているのです。それは、この子が歩んだ家庭教育や学校教育、あるいは社会教育の成果だったのです。
「人を傷つけてもいいですか?」「だめです」「それはなぜですか?」
「自分の思い通りにならなければ怒りを人にぶつけてもいいですか?」「だめです」「それはなぜですか?」
「人を頼ってばかりいて自分では何もしない、いいですか?」「だめです」「それはなぜですか?」
さまざまな事象を理科的に数学的に歴史的に・・・捉え、真実を知り、そこから「正しいことは何なのか」がわかるようになるために学校はあるのだと思うのです。
「人の幸せはどこにありますか?」
「本当に大切なものは何ですか?」
「あなたは、何をしなければいけませんか?」
に答えを出せるようになるために学校はあるのです。
そして、子ども時代にみずみずしい感性のもとで学んだ真実を見つめる目が、生涯にわたって曇ることなく更に磨きがかけられ続けることが教育の目標ではないかと私は思います。
世界を見渡してみますと、「本当に大切なもの」が見えていない人が国を導こうとする人の中にいるように思えて悲しくなります。教育は世界をも変えることができる大きな力を持っています。何のために学校はあるのか、教育は何を目指さなければいけないのか改めて全ての人が考える必要があると思います。<参照:本質を求めて><参照:本当に強い人>